●最近、大船だとか。
やれ秩父だ、大阪だと何だか、やたら移動距離の多い・・・私こと山野亜紀です★
Suicaがまた、チャージをしても、チャージをしても、すぐに残高が減ってゆく・・・。
お財布の中身までが何だか、桜吹雪のように散っていきそう☆
そんな昨今なんですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。 (^^;)
「和心きらり」を始めて、今年で4年目に突入致します♡
歴史が苦手な・・・私こと山野亜紀が、食文化史年表やら。
江戸の食についての文献を紐解く内に、何だかその知識も深まってきたような。
歴史勉強会やら、歴史散歩などを渡り歩く内に、昨今は幡ヶ谷にも(!)通うようになりました。 (^-^)
●「あーとカフェ笹峯ぎゃらり」というカフェです。
「お江戸町人文化を語る会」に最近、出没をしております。 👀
「茶話会」というと、昼間の開催なんですが、「酒話会(!)」となると夜の催しとなります♡
渋谷からだと幡ヶ谷は、ハチ公側出口からのバスで1本の距離に。
今月もゲストは、 江戸文化研究家の藤代桜さん。
茶話会なので、途中で自由に質問は出来るし、桜さんのお話はとても判りやすくて、素人の私には持って来いのお話なのでありました。 (^_^)/
ちなみにこのカフェのオーナーは女性で、漫画家であられる、マメ太さん。
旦那さまの切り絵版画師、かみきり仁左衛門さんと一緒に、この会の切り盛りをされています☆
桜さんは「日本文化史学科」を卒業されていて、専攻は女性芸能史なんだそう。 👀
お江戸の町人文化にお詳しいので、まぁ「和心きらり」にはぴったりな女性なのでありました♡
●はてさて。
この日は、「蕎麦と酒」がテーマでした。 (^-^)
お江戸の居酒屋といえば、小上がりに上がるか、2人並んで腰掛けられる椅子の傍らに座り、空いている席にお盆を置いて、食べながら吞むスタイル。
・・・こうしてみると、絶対にお皿を持ってでないと飲食出来ません。
「だから日本は、こういうスタイルで食事をするようになったと思うんですよ」
と語る桜さん。
居酒屋で出てくるメニューなんて、焼き海苔とか、厚揚げの焼いたのくらいが関の山。
まだ食べたかったら、その辺の屋台や棒手振りからなんかで買ってきて、お店に持ち込みで吞むのが定番だそう。 (‘_’)
ちなみに、お酒を酒屋さんで買う場合は、お店では40升(!)も入る樽の中から、俗に言う貧乏徳利に入れて分けてもらいます。 👀
通常は、手樽に入れてくれるのですが、それであれば1~3升くらい。
お祝い用なら、角樽に入れての商いであるとか☆ (〃∇〃)
●ともかくも「お江戸という処」は、徳川家康さんがしみじみと拵えていった城下町です。
もとは遠浅の海で、浅草寺だってもとは島にあった(!)くらいですから、ホントに、人も住めないようなお土地柄でした。
・・・そんな浅瀬を、一生懸命に埋め立て、埋め立て。
何とか 人が住める場所にしたというんですから、この偉大なる土木事業を思い付いたのと。
・・・当時、お暮らしになっていた人々の、とてもつない粘り強さには、ホントに頭が下がります・・・。
家康さん、「港には、し易い地形だ」という事で「江戸を中心地に選んだ」と聞きましたが、地道な努力が何とも推察されます・・・。 ( ̄ー ̄;
●ところでこの日は、1人ずつに、2つのグラスが用意されていました。
一つはやけに水っぽいし、もう一つは一応、まともなお酒の味が致します。
「実は江戸の酒は、3倍から5倍に薄めたお酒を、酒屋さんが販売していた(!)んです」
という桜さんのお話に、私こと山野亜紀はしみじみ、びっくり致しました。 (-_-;)
・・・何しろ、お江戸というお土地柄です★
職人を呼んで造成した町ですから、出来たばかりの当初はもちろん、近場でお酒を造る場所どころか、技術を持っている人さえもおりません。 (^^;)
ですから、そこは西からの下り酒に頼りまくる(!)という生活が、長らく続いておりました。
また貿易が始まった当初は、馬に酒樽を括り付けての運搬に。 👀
ところが江戸の人口は増えに増えて、とうとう馬では飽き足らなくなって、今度は船で酒樽を運ぶようにまでなりました♡
始めた当初は、「要所要所で荷を下ろす、菱垣廻船」であったのですが、とうとう、
「えーーーいっ、まだるっこしい!!」
とばかりに、「直行便の、樽廻船」に差し替えが・・・★ 😅💦
気持ちはよく判るんだけれども、運んでくる量に対して消費も多い(!!)ので、やむなく???
「お酒を水で割って、かさ増し」をして販売をしていた・・・という、事実なのでありました★ (^▽^;)
●日本酒を、水で(5倍も!)薄めるなんて・・・★
悲しみに浸れそうなお話なんですが、当時としては当たり前であるらしく★
それに「水」とはいえども、井戸の水で薄めてみたり、はたまた玉川の水で薄めたり・・・などなど。
また樽廻船には、様々な酒造から酒樽が送られて来ます。 👀
・・・当時の酒屋さんというのは、それらの酒をブレンド(!)
それに、更に水を加えての販売をしていたとか・・・。 😅💦
下り酒はもちろんの事、焼酎、どぶろく(密造酒)などなど★
お江戸という処は、美味しい水を飲もうと思ったら現代の如く、買うしかありません。
・・・なので、同じ値段なのであればどうしても「水より、酒を選んでしまい」、計算をしてみると「平均で1日に3合の酒を消費」していたんですって、へ~え。 (゜_゜;)
●ちなみに、先ほどの樽廻船。
もともと日本酒は、密閉できる瀬戸物の瓶で運搬が行われていました。
瀬戸物の瓶で、そのまま熟成をさせていたのだそうですが・・・。 👀
それを「江戸まで送る」となれば、そんな容器では、とての事に重くて運びにくい★
なの で、木製の酒樽に詰めての旅路となりました。
西から東への海路の中で、樽の香りや木の油分をお酒が吸って、透明であったお酒が薄いクリーム色へと変っていきます・・・。
その味も、丸みを帯びて、甘口になっていくんだそうですよ。
文字に直すと「甘口」とは書きますが、江戸ではこれを「うまくち」と読ませていたんですって、へ~え。
●それを酒屋さんが、それぞれの好みでブレンドをします★
そうして店で売っていたので、現代のように「一升瓶に、メーカーの名前が書かれているような事」はなかったのだそう。 👀
それが。小売りの為に使用されていた「貧乏徳利」。
これは、酒屋さんが貸してくれていたモノだそう。
なので必ず、どの徳利にも酒屋さんの名前が入っていたのだそうです♡
・・・そちこちで、酒の味も違う世の中であったようですから、
「山本屋の酒の方が、おいらは好みだ」
なんて語る江戸っ子も、多かった事が覗えます。 (^_^)v
●はてさて、今度はお蕎麦屋さんの話に参りましょう。
ちなみに江戸っ子って、とっても気が短いので有名ですよね。 👀
なので、蕎麦屋に入るとまず「蕎麦前」といって、酒にカンタンなつまみが出て来るんだそうです。
また屋台の蕎麦屋と、お蕎麦屋さんというのがまた、別物であったそう。
二八蕎麦とは言いますが、蕎麦一杯の値段は、なんと(!)
幕府側から、制定した金額であったとか★
・・・これが屋台でなら、茹でておいて、温めた蕎麦を丼に入れたら、上からは汁を掛けてだけの販売に。
ネギといった薬味は、屋台では使いません。
この蕎麦つゆというのがまた、醤油:みりんを1合ずつで、2合を1合になるまで煮詰めたモノに、大根の絞り汁か、大根おろしを入れたモノを汁にしたのが、定番だったのだとか(!)
・・・まぁ、そのお味の辛いの何の★
また蕎麦の1人前の量というのが、70~80g程度なんだそう。
「肉まん一個くらいの量」なんですが、これって一体、何でなんでしょうか。 (>_<)
●お江戸の町人といえば、職人が多いですよね。
なんと、町人の8割がたが男(!)だったんだそう。
貧乏長屋でも、夫婦者というのが1組か、2組くらい居れば良い方だったとか★
朝起きたら仕事に行って、お腹が空いたら、その先々で何かを食べる。
・・・そこは長年、殺陣の講師をしてきた私にも判るのですが★
動く仕事をしていると、食べ過ぎれば気持ちも悪くなるしで、ちょいと食べては動いて、動いては、ちょい食べを繰り返す生活に、そういえば私自身もなっていました。 😅💦
●よく「食事が3食になったのは、いつ頃からだったのだろう」なんて、お話が出ます。
「時間を決めての食生活」なんて、そんな生活は例えば、お客さまを相手にしているだとか。
・・・はたまた、相手があって、そこに合わせているから!
だから、致し方なく食事時間帯を合わせているのであって、そうでない人は、食事の時間なんて決めなくても、良いのですよね・・・★
ファーストフードに長けていたお江戸の頃などは、食事の回数なんて敢えて決めずに、自分のライフスタイルに合わせて食事をしていたのだと言われて、思わず納得をしてしまった・・・私こと山野亜紀なのでありました★ 👀
ちなみに関西は、商人が多い都市だからこその、三度三度の食事が定着し。
・・・これがお江戸なら、商いをしている人ならまだしも、そうでない者は、好きな時に食べるという気ままな生活♡
・・・ある意味、私自身も昨今では江戸人だな・・・。 (^_^;)
何だか、そう思い知ってしまう今日、この頃なのであります。
●ちなみに「お江戸の頃のお酒」に話は戻るんですが★
当時は、「アラキ」なるウォッカも、江戸っ子は大変に好きだったんだそう(!)
・・・なぜにロシア、何故にウォッカなのでしょうか★
そういえば、「今年1月の、和心きらり旬エッセイ」で、世界で海草を一番愛しているのは、実は日本人である(!!!)・・・という下りをやりました。
ロシア人からしたら、海に生えてる昆布やワカメなんて、ゴミでしかないんですっ。 (^_^;)
・・・それを、松前藩が一生懸命に掻き取って、北前船に乗せては何だか、輸出をしています・・・。
海の雑草(!)は取ってくれるし、しかも日本人のおかげで、よく判らないけれども海がキレイになる!!!
という訳で、そのお返しに「アラキ」をくれたのだという説が・・・。 (^▽^;)
●はてさて、この「アラキ」なるウォッカです。
下の写真は、インドネシア産のモノですが★
当時のお江戸では、お医者さんが、傷口を消毒するのにも使ってもいたそう(!)
・・・でもでも、酒屋で売られている日本酒とは違って、水では薄めていないしで、とにかく原酒で、純度の高いお酒なんですね。 👀
ちなみにこのお酒に水を入れてしまうと、アブサンの如くに白く濁ってしまうので、これは何とも、一発で判るっ!
「こいつは、純100%だぜ」というのがすぐに判ってしまうので、とっても江戸っ子たちが好んだお酒なんだとか★
・・・うーん、何となく想像できなくもないですよね。 😅💦
●さて最後に、お蕎麦に話を戻しましょう。
屋台ではなく、お蕎麦屋さんでともなれば、また食のスタイルも変っていきます。
蕎麦屋のメニューは、お皿に蕎麦が持ってあって、つゆをぶっかけて食べる「皿そば」か。
お皿に盛ってしまうと、蕎麦が水を吸って伸びてしまうので、ザルに乗せて。
・・・それだとぶっかけられないから、蕎麦猪口を付けてみたという「ざるそば」。
そして温かい方で言うなら、お汁をぶっかけた、現代でいう「かけそば」と、麺が熱くて汁が冷たい、「せいろそば」といった処での販売で、薬味は別料金でした。 👀
とにかく幕府が、「蕎麦は一杯16文と、決めてしまった(!!)」ので、儲けるためにも、そこは、お蕎麦屋さんは考えます。
・・・そこでやれ、鴨南蛮やら、種物お蕎麦を捻り出しました★
こちらは別料金にしたという事ですが、呆れた事には、お蕎麦は当時はもちろん、手作りで作るしかなかった訳ですから。
だから「手打ち蕎麦」なのはどうにも、当たり前の事です。
ところがご丁寧に、「手打ちそば」やら「手打ちごぜんそば」などと新たに銘打って、そのお店では別料金を拵え(!)
・・・それで「当時のお蕎麦屋さんは商いをしていた」というから、その生き様には打たれます・・・。 (^▽^;)
●お江戸の頃のお蕎麦というのは、ヒマだから、何となく蕎麦屋へ行って。
店の客などと語りながら、「挽き立て・打ち立て・湯がき立ての蕎麦」を吞みながら仕上がるのを待って、趣味で食べる★
けして、お腹が空いているから食べるモノではなかった。
だからこそ、粋な食べ物であったとか・・・。 😅
何だかお江戸の頃で暮らしている感じになってしまった私こと、山野亜紀でありました★
桜さん、楽しい講座をありがとうございましたー。 (^_^)/
(2017.4.1 文責・山野亜紀)
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