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第38話 静岡藩って、あったのね。(2016年7月)

●2016年は、真夏日が続いたかと思えば、豪雨注意報発令がっ!

 たまに夕立が降ったりすると、あれ、日本らしい天気に戻ったのかな、なんて思ったり。
 ・・・ある時には外の様子を眺めながら、いやいや、やっぱり日本は亜熱帯化しているんだわと、しみじみ頷いてしまうようなお天気ですよね。 😅

 さて最近、歴史に興味の出て来た・・・私こと山野亜紀なんですが★
 前回は織田信長関連だったのですが、この度は幕末について勉強してみるつもりになりました。 👀
 さて幕末って、難しいような気がものすごくするのですが、今回の講師は安藤優一郎さん。

 歴史家で早稲田大学の文学博士なんだそうですが、ものすごくたくさんの書籍を出版されているお方のよう。 (゜_゜ )
 前回の明智先生なら、著書に「歴史捜査」という言葉が使われているのですが、この方の場合は「不都合な真実」というものらしく。
 さて、こういった言葉の類いは、実は出版社が考えているのだという、お話でした。 👀

●さて、幕末といえば思い出すのは。

 私こと山野亜紀的に思い出すのはやっぱり、NHK大河ドラマでの「八重の桜」でしょうか。
 林先生の助手として、直接「薙刀指導」に関わった想い出もありますが、そう言えば「龍馬伝」やら「徳川慶喜」なんてのも幕末ですよね。 👀

 教科書でいうなら、慶喜慶応3(1867)年10月14日に大政奉還を。
 その後といえば、例えば上野で彰義隊が戦っていたりだとか。
 ・・・けっこう、あっという間に「江戸城が無血開城をした」という感じでいたのですが、会場で戴いた資料を見ますと、とにかく事件が色々、色々とあったようでして★
 なんとか片付いて落ち着くまでに、約1年もの歳月を費やしていたようなんです。 👀


 たしかに、江戸幕府270年の歴史を一度に変革しようとするなら、それくらいの時間でもまだまだ、足りない位なのかもしれませんねぇ、しみじみ・・・。

●ところで、大政奉還を行ったのは徳川慶喜さんでしたよね。

 「政権を、幕府から朝廷にお返しした」わけですが、その当時の幕府軍はまだ、けっこうに良い武器も持っていたし何より、がぜん優勢だったようなんです。 👀
 逆に、薩摩・長州の方が、兵の数も徳川に比べれば極端な程に少なく、劣勢でした。

 倒幕の勅命(朝廷が下す命のこと★)により新政府軍は、いざ戦(!)と意気込んでいた処に、あまりにも幕府軍が素早く政権を返上してしまったので、「あれ・・・?」という感じで、気持ちのやりように困ってしまった、なんていう処から始まったのだそうです。 👀

 さて。
 徳川慶喜は政権を返上しましたが、幕府軍の下々の気持ちは、それではやっぱり収まらない。
 当時の慶喜はまだ大坂にいましたが、お江戸にいた徳川軍が、「江戸にあった薩摩藩邸を焼き討ち」したり、海上でも兵庫沖で、徳川の軍艦・開陽が薩摩藩の軍艦・春日を砲撃したりと。
 慶喜さんは大人しくしているんですけれども、そちこちでけっこうにアクティブに動く方々がおられて、そうこうする内にその年も暮れていきます・・・★

●さて徳川勢は1万5千に対し、薩摩・長州の兵の数は5千・・・。

 京都におわす天皇を、なんとか安全な広島藩にまで逃がしたいのだけれど、そこには慶喜自慢(!)の歩兵隊が頑張っているので、どうにも出来ません。 ( ̄_ ̄ i)
 そのうち、大阪から京都へ攻め上ろうとする幕府軍と、京都にいた新政府軍が、鳥羽・伏見で衝突。

 徳川勢が薩長同盟を甘く見ていたようでもありますが、まず新政府軍に出鼻を挫かれてしまった事で、しょせんは徳川軍も「数は多いけれども、寄せ集めの軍だった」という事で、指揮が大・混乱★
 ・・・その陰で、京都で行われていた新政府軍の会議において、「降伏という姿勢を取っていた慶喜の立場」もとうとう。

「徳川軍って、これだけガンガンに攻めてるよね。だから慶喜さんはもう、朝敵だよね(!)
 という処分で決まってしまい、年明けて5日に。
 意気ようようと錦の御旗(鎌倉時代からの、朝敵討伐の印)を幕府軍に対して、新政府軍が掲げてしまいましたから、(薩摩・長州と戦っていたとばかり考えていた)京都は淀藩もさすがにびびってしまい、伊勢にある津藩までも「朝廷を裏切るなんて、とんでもない」とばかりに、幕府軍を裏切ります。 (><;)

 さて慶喜さん、「ご自分が朝敵にされてしまった事」で、一目散に大阪城から脱出します。
 ・・・そして諸々あって、ようやくに慶喜さんは12日に江戸城にたどり着きますが、「逃げた」とあっては、幕臣の不満も一塩★ ( ̄_ ̄ i)

●慶喜さん、頑張って何とか、徳川家内部の立て直し。

 「幕府側は、政権を返上した事でもあるので、戦はしないという姿勢を頑張って見せるんですが、そちこちで色々とあって、燻る様子も。
 それから1ヶ月ほどは「擦った揉んだ」の後に、2月11日に慶喜さん。
 幕臣達に「戦はしないよ」と意思を伝えて、絶対恭順を唄って上野は寛永寺(将軍家の霊廟★)で謹慎の身となります。
 ・・・そこでいよいよ勝海舟さんが表に立って、交渉の遣り取りとなっていくのですが・・・。

 さて、勝さんです。
 西日本に知己が多いとの事で幕府軍側より、交渉役として抜擢をされました。 👀
 この後、新政府軍では、かの有名な西郷隆盛さんと交渉するようになりますが、西郷さんと勝さん、まだ殆ど面識はありません

 そうこうする内に、2月23日に「もう、新政府軍に江戸を良いようにされるのはイヤだ」という人々が集まって、かの有名な彰義隊を結成致します。

●・・・というのも。

 慶喜さんが江戸に戻った事で、新政府軍もどんどんとお江戸へ入って来ています。 👀
 ところがお江戸の町の人々からすると、自分たちは着物を着ているのに、あちらは見たこともないような格好(つまり、洋服★)を身に纏い、しかも頭には、妙ちきりんな帽子まで被っているんです。

 見るからに怪しく(!) 「あいつらは、悪人だ」といった印象に見えるのに対し、お江戸の彰義隊のメンバーは「明日には、死ぬ命だから」とばかりに、こちらは吉原は遊郭に通っての勢いのある様子でして・・・とにかく!
 何しろ金払いの方が、大変に良ろしい♡ (^▽^;)
 ところが新政府軍の方は、そうではなかった(!)という事で、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」なる言葉が、遊郭内では流行っていたという事です・・・はい。 ( ̄_ ̄ i)

●・・・はてさて。

 勝さん「敗戦処理を得意としている」そうなんですが、まずは山岡鉄舟さんが勝さんの代理として3月9日に、静岡は駿府にて。
 新政府軍は、西郷さんと対面をします。

 ・・・すると、西郷さん。
 この時点ではまだ、現場監督といった立場であったので、幕府軍の意向を聞くと、翌10日を掛けて京都へ船で駆け戻り、まずは上にお伺いを立てます。
 この辺、お役所の仕事と変らないとは、講師である安藤さんのお言葉★ 😅💦

 江戸側は、「慶喜の助命嘆願の代わりに、もう軍艦や兵器全て引き渡す心づもりである」だとか。
 江戸城を開城(慶喜が江戸を去る)するので、徳川にはそのまま、江戸城を残しておいて欲しい」などといった、とにかく色々とお願いをします。 👀

●西郷さん、2日後には(つまり、12日★)に江戸に戻って参りますが。

 モノが、「15日までに無条件降伏しないなら、総攻撃をかける!」といった内容であったので、これには幕府軍も反発★
 ・・・たしかに、もちろん下準備をしていたとしても、江戸城って広いですもんねぇ~・・・★
 江戸側からの嘆願が聞き届けられたかという点も気になりますし、その辺りで勝さんの取りなしがあったのか、西郷さんが独断(!)で総攻撃を中止してくれたんですが、新政府軍の板垣退助さんだとか、西郷さんも・・・そちこちでまた、けっこうに反発が起こります。
 この辺りから西郷さん、どんどんと立場が悪くなっていったそうなんですが。 👀

 擦った揉んだの末に、「とにかく4月11日までには、無血開城を」という流れになりまして。
 これまた、それに反発する幕府軍の歩兵がいたり、軍艦が脱走!(考えてみれば、それもスゴイ★)とかありますが、何とかかんとか、和平の流れへと持ち込んでいき、慶喜さんは水戸藩お預けの身と決まったので、ともかく江戸を4月11日に立ち去りました。
 ともかくもこれが、「無血開城という真実」になるわけです。

●ところで、無血開城の5日前(閏4月6日)の事です。

 幕府側のお願いも色々とありましたが、新政府軍のいる京都ではそれを基に、徳川家の処分の評議が開かれました。
 まずはともかくも、徳川家はお国換えさせてしまえ、という事に決めてしまいます。

 (もともとは、800万石の徳川さん★)ですが、まぁ、100万石ほど食い扶持を与えておけば良かろう、という事で話で纏まりました。
 公家の三条実美が、西郷さんを従えて意気揚々とお江戸へとやって来ます。
 開城をした江戸城に4月23日に入城をして、25日には100万石と思っていた処を実は、70万石(!)にと、こっそりと変更★
 ですがこれを言ってしまえば反発が激しくなるので、黙ってこっそり、着々と物事を進めていきます。

●さて、4月29日の事です。

 徳川の跡継ぎをまず、亀之助にと新政府軍が定めます。
 城内に残っていた反発派を減らし、「城が我が物」となった処で新政府軍は5月1日にようやく、幕府軍側に移封(江戸城は返還せず、お国替え)だけをまず、伝えます。

 ・・・城が我が物となれば、目障りになるのが上野寛永寺に詰める彰義隊★
 9日には討伐を決めてしまいますが、・・・これには勝さんもとてもマズいと思ったようで、彰義隊側にとにかく解散するよう説き伏せたのですが、甲斐もなく★

 兵力の大きい新政府軍に対して、たった千人ほどの彰義隊だったんですが、何しろ装備は旧式だし、寄せ集めの兵でもあったので、翌15日には敗戦の運びに。 (-_-;)

●さて、それからです。

 彰義隊を倒した後で、24日に。
 実は、「100万石ではなくって、70万石に減俸をしたが、幕府は駿府(この時、「静岡藩」なる領地が、一時的に誕生★)へ移れ」と、新政府軍から申し渡されてしまうのです。

 ・・・ここまで来てしまっては、徳川さん、どうにもなりません★
 致し方なく旧幕臣達に、明治政府に出資して朝臣になるか、はたまた、武士を捨てて農民や証人になるか。
 それとも無禄覚悟(収入ナシ!)で、静岡に移住をするかを選ばせたんだそうですが・・・。
 それでも、けっこうな人々が静岡の地へと移っていったそうで、大変な苦労を経て牧ノ原台地などを開墾(!)

 ・・・「1人が1年で、一石の米を消費する」という、お江戸の石高制度ですが、それが800万が70万石に★
 9割以上のリストラ(!)を迫られ、見知らぬ土地に移住をさせられ、70万を飛び越すくらいの民人が暮らす土地柄となった静岡藩・・・。 👀

 そして、会津藩がやはり移住をさせられて・・・なるお話はよく聞かれるのですが、この静岡藩のお話は余り知られてはおらず★
 とても苦労をして、また、けっこうに人もお亡くなりになっていたりしていてで、その結果が現在の茶畑になったんだとか。 😢

 ・・・駿河といえば、お茶の香り~ィと、男伊達~♪
 そんなイメージでいた・・・私こと山野亜紀なんですが★
 明治天皇が10月13日に(もとは江戸であった)東京にやって来て、その城を皇居にするまで、そ~んなに、長い歴史があったとは・・・。 ( ̄_ ̄ i)
 2016年のお正月は九州に行ったので、知覧(という土地)のお茶を今飲んでいるのですが、静岡茶ももう一回愛してあげようかな、などと思う、私こと山野亜紀なのでありました★
(2016.7.1 文責・山野亜紀)


〇2016年7月のお膳

◎7月のお膳+お弁当☆(2016年)

☆「最近知られる、ツルムラサキ!がっつき黒鯛、日本人」~文月のエッセイ(2016年)

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