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第6話 「お米」のニッポン。(2013年11月)

●台風一過か(?)

 びみょ~♪に暑かったり何だりで、2013年の秋の紅葉はどうなっているのかと心配な・・・私こと、山野亜紀です・・・★
 毎年、かならずどこかへ紅葉狩りに行きたいなーーーーって思いマス。
 ついでに、どこかで生えたての茸でも買い求めて、ついでに出来たらどこかで、松茸の土瓶蒸しを食べたいなぁ~♡
なんて(!)
 秋になるとついつい、こんな・・・野望を抱いては何だか玉砕をしてしまうんですが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか? (^_^;)

 11月になりました(!)
 世間さまではあちこち、「新米プレゼント!」・・・とか。 👀
 「新米、入荷しました!」の文字や幟を、見かけます。
 今年も80歳になった山形の叔母さん(今は亡き父妹・最上郡に在住)がわざわざ、実家に新米を送ってくれました(!)
 叔母さんの送って下さるのは、スーパーのお米より数段美味しいんです♡ (^_^)v

 毎年、「このお米は、大事に食べなきゃなぁ~」と、思います♡
 実りの秋、美味しいモノの多い日本の秋、そして台風やら災害ばっかりがとっても気になる日本の秋・・・。
 米食文化の日本ですが、亜熱帯植物のコメは一体、どこからどうして日本にやって来たのでしょうか。 (゜-゜)

●とにかく何しろ、「まだ日本に、文字のない時代」に渡って来た、おコメさんです(笑)

 伝承によれば、「ツルが、稲穂をくわえて渡ってきた」・・・とか。(ホント?)
 「天竺(てんじく・インド)か唐土(もろこし・中国)から、密かに持ち帰られて伝来(誰が?👀)」とか、いくつか説はあるそうです。
 日本で食べられているおコメは「温帯ジャポニカ種」だそうで、水田で作りますよね。
弥生時代に稲作が始ったと言われていますが、当時の人たちが一体、どのようにしておコメを食べていたのでしょうか。 👀

 なんでも1万年(!)も続いたという、日本で一番古いとされる縄文時代ですが★
 この「コメが伝来する前の時代」では、今でも雑穀として食べられているアワ(写真・左)やヒエ、それに山菜や菜っ葉かなんかを入れて混ぜ込んで煮る「糅飯(かてめし)」を食べていたようです。 (゜-゜)
 このアワがまた小粒すぎて、お粥にしないと口に出来ない★
 ・・・コメが伝来してもなお、お粥にして食べていたのは、生産量が少ないという事もあるけれけれど、このアワ粥(写真・下)の名残があったからとも言われているようです。

●さて、そのコメを食べるための・・・道具なのですが。

 弥生時代の次の古墳時代(仁徳天皇とか、いましたね★)では、甑(こしき、蒸籠のこと)という道具が、何処からか伝来してきます。
 これで今度は、コメは蒸して食べるようになりました。
 蒸したコメは、「飯」と書いて、「いい」と読みます。
 当時は、コメはコメでも、現代でもハヤリの古代の赤米を常食。
 蒸して食べるコメは、今の「おこわ(強飯の敬称)」に当たるのだそうです。

●さて、聖徳太子の飛鳥時代がきて。

 天武王朝時代を過ぎ、奈良時代を越えて、平安末期にして・・・よ・う・や・く。
 今の「めし」にあたる固粥が登場してきます。
 ・・・これまでの間に、500年くらい掛ってるってのが、またスゴイ。 (^_^;)
 とはいえ、この製法が下々にまで行き渡るまでには、また・・・更に時間が掛ります★
 平安末期になると、現在の私達が常食してるコメに当たる「うるち米(もち米より粘り気が少なく、柔らかい)」の生産が進んではいたのだそうですが、現在のまた「炊飯って技術」というのが・・・★ 😅💦

1.まずコメを煮る。
2.次に蒸す。
3.最後に焼く(!)というのが、現代にも続いている炊飯の技術です★

 煮て、蒸すまでは土器甑(こしき・古代の蒸籠)で出来ても、その後の「焼き!」が、高温が必要な為に、鉄釜でないとダメだった・・・。 😢
 この釜が普及するためには、また更に鎌倉時代を超えて、室町まで引っ張ってしまうんですね・・・★ Y(>_<、)Y

●ちなみに室町時代になると、全国に稲作が普及していきます。

これが延々と続いてとうとう、日本には「石高制度」まで敷かれるようになったって言うんですが、この石高ってのは一体・・・(?)

 ・・・話によると、「お侍さんの働きは当時、(1人当たりで)1年間にコメを約一石消費するくらい」と、計算。
 これが例えば加賀百万石なら、100万人の部下を養えるほど力のある藩であ~る、っていう意味になるんですって、ふ~ん・・・。 (゜-゜)


 さて、この石高制度。
 成人1人につき、一日に3合(お茶碗6杯)の割合で計算したんだそうですが。
 ・・・それにしても、お百姓さんだって当時は6合(!)とか食べてたんだから(!)
 お侍さんだってきっと、米3合よりは、もっと食べてたんじゃないかなぁ~・・・。

 1石はイコール10斗(という単位)になって、1斗は100升という計算になりますから。 👀
 つまりは、1000合(1合につき150gで、だから計算すると150kg!)に当たるとして、10kgのお米が15個かぁ・・・。
 私こと山野亜紀なら、これって、1年では消化しきれないかも・・・★ (^▽^;)

●さて、コメはそんな風に食べられてきましたが、食具についてはどうなのでしょうか。

 日本に箸が伝来したのは、聖徳太子が生きていた飛鳥時代の頃のようです。 👀
 それまでの記述をみると、邪馬台国の卑弥呼さんの時代くらいしか文献にはなく(!)
 そこでは「倭人は手食する」とあるそうなので、卑弥呼さんは、お箸の存在は知らなかったようです。 💦
 ・・・もちろん箸を伝えてきたのは、歴史の教科書で見る「遣隋使から」だとも。

 さて、古代中国では、「箸と匙がセット」で使われていました。
 なので箸はもちろん、匙とセットで日本には伝わってきました。 👀

●・・・さてさて。

 ジャポニカ種のコメを食べるようになった日本人には、ご飯を食べるには、匙よりも箸の方が良いのは・・・ご存じの通り。
 平安時代の朝廷では、箸台に銀の箸と匙、柳の箸と匙と二種類が置かれていたらしく。
 ご飯の方は・・・柳の箸で食し、他は銀の箸で食していたそうですが、匙の方はかような訳で(?)
 何だか、すたれていきます・・・★ (^_^;)

 この、食器に銀が使われていた理由は。
 一説には、毒物が入っているとすぐに食器が変色をして、発見が早かったから・・・だとも。
 室町時代まで下りて来ると、今度は「箸は食べるだけの御膳箸」以外に、調理で魚類を扱う真魚(まな)箸や、植物食材を扱う菜(さい)箸。
 はたまた、お客に食べモノを取り分ける「取り箸」など、細分化をしていったのだそうです。 👀

●ちなみに、今も食堂などで、現代の私達が良く使っている「割り箸」ですが★

 これは、江戸の誇る代表的料理、鰻丼に添える為に発明されたというのは有名らしいです。
時は、十一代将軍家斉の頃。
 お江戸日本橋界隈に、大久保今助という、お芝居のスポンサーがいた・・・そうな。
 とにかく、すごい鰻マニア(!)なんだけど、大好物の鰻を食べに行きたくても、忙しくてヒマがない。 (^_^;)

 当時の有名な江戸の鰻屋さんといえば、神田筋違中町の深川屋さんとか、尾張町(現在の銀座☆)の鈴木さん
 歩いて食べに行こうと思ったら、それは時間が掛ります。 (-“-)
 ・・・そこで考えた、今助さん。
 温めた糠の中に蒲焼を入れて、出前をしてもらう事に致します。
 ・・・ここで、何故に温めた糠なのか・・・・・・???

 現在のような「保温式弁当箱はない」にしても、糠で一体、どれほどの時間、保温が保てるのものでしょう・・・★

 そんな訳で、もちろん「鰻屋から自宅に戻る途中」で冷えてしまうしで(!)
 美味しいハズの鰻も、ほんとに、大変にマズかったようなんです・・・★

 そこで考えた今助さんは、今度は炊きたての丼飯の中に鰻(!)を入れて届けてもらったところ、これがひじょうに上手く行きました♡
 ほかほかご飯に鰻のタレが程良くなじんで、とにかく旨いことこの上ない。 (((o(*゚▽゚*)o)))
 ・・・これが芝居町の評判を呼んで、今助さんが贔屓にしていた日本橋の葦屋町。
 大野屋さんが「元祖鰻めし」の看板をあげる事になりまして、益々評判をあげました♡

 資料にも、「(鰻丼飯には)必ず引き裂き箸を添える。半分まで割った杉の角箸で、食べる時に裂き割ってこれを用いる」とあるそうです。
 ・・・やっぱり、日本人は米には箸なんだなぁと。
 しみじみ感じ入った・・・私こと、山野亜紀なのでした。
 それにしても、おコメの歴史って長いわぁ~♡ (〃∇〃) 
 (文責・山野亜紀 2013.11.1)


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