●11月の「時代劇エッセイ」更新は、ぎっちょん、ギッチョン!
29日に庚申という酷さでございますが、それでもやるだけはやっておこうと思う私こと、山野亜紀ンでございます。 😅💦
暖かかったり寒かったりで、今は一体、どの季節なのっ!?といった昨今ですが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
さてtwitterなどでは、ご紹介をしているんですが★
11月30日月曜日、林邦史朗先生が過去に殺陣を振り付けた作品が、NHK「ひるまえほっと」(11時5分~54分)で紹介をされましたっ。 (^-^)
●さて「林邦史朗先生のHP」を1から手掛けた私こと、山野亜紀ではありますが★
先生の過去の実績をつらつらと見ていてふと、「テレビ映画」なんて文字を見つけました。
そもそも、テレビ映画というのは何なのでしょうか?
・・・林先生にお伺いすると、先生が子供だった76年前の当時はなるほど、娯楽といえば、映画が全盛期の日本ではありましたよね。 (゜-゜)
現代なら、映画はフィルム録画になりますし、テレビ放送用ならビデオ録画・・・という事なんですが★
映画は、重ね撮りの出来ないフィルム撮影なので、どれも保存状態さえ良ければ残されているから、今も私達は楽しめています。 👀
ところがビデオ撮影なら・・・VHSに(ビデオは2種類ありました★)なんて、もはや懐かしい世界のお話ですよね。 (^_^;)
今でこそ、DVDやHDD録画が当たり前(!)の世の中なんですが、それまでは、何処のご家庭でもビデオに予約録画の時代でした。
そのビデオテープが開発されるまではもちろん、フィルム録画(しか、技術的に出来ない★)時代がまぁ、長らくとあった・・・という訳です。 😅💦
●なので「映画館での公開用に」ではなくて、「公共放送で発表する用」なんだけれども撮影手段が当時は、フィルムしかなかった・・・★
これが、「テレビ映画なる表記」に結び付いた訳なのでございます・・・★
そしてようやくに「ビデオ撮りが出来る」ようになりましたが、始まった当初は「20分テープ(!)」しかなかったのだそう。 👀
・・・誰かがNGを出すと、全て初めからやり直すしかなかったそうですから、いやはや、過酷な撮影現場だった訳ですよね。 (^^;;
そしてこれは、現代でももちろんそうですが、出来て売り始めたばかりの機材というのは、べらぼうに高価なモノですよね。 😅💦
・・・ビデオ撮りが始まった当初は、予算の都合もあってか、やむなく以前のテープを何度も何度も、使い回して行われていました★
なので、大昔の大河ドラマの映像は、フィルム撮影なので現在も残されているんですが。
ビデオ撮影が始まった当初の映像は、かような訳で、多くの放送局はその記録を残す事をしませんでした。 (T ^ T)
・・・それでも、TBSだけは残していたのだと、林邦史朗先生から聞いた事が私はありますが。 👀
●かような訳で、林先生の若い頃の活躍も今は、そうは見る事が叶いません。
「役者さんが、自分の記念の為に残していた映像」など、昨今では「過去のデータとしての協力を促している」ようですが、林先生も、少量ではありますが、自らの殺陣のシーンを提供したりもあったようです。 👀
そして今回の「ひるまえほっと」では、1973年の「天下堂々」という番組で、村野武範さんが所有していたという映像が一部公開される事となりました。 (^_^)/
さて当時の村野さんは、平手造酒(ひらて・みき)という役を演じていたとの事。 👀
・・・この平手造酒、実在する人物だというから、驚きです。 ( ̄_ ̄ i)
今も、千葉県は香取郡の延命寺に、お墓が残されているのだとか。
本名は、平田深喜(ひらた・みき・・・深水、又は三亀とも書くそう)。
紀州だか仙台だか、とにかく、とある藩出身の浪人であったようです。 (゜-゜)
●天保8(1837)年!
千葉県は香取郡、笹川繁蔵親分の客分となったそうなんですが、結核患いで、大酒呑みというキャラクター(!)
天保水滸伝などの映画や講談、昭和の歌謡曲にも多く、登場をしている人物なんだそうです。(゜-゜)
私こと山野亜紀が知っているのはおそらく、三波春夫さんの一曲である、「大利根無情」かと。 😅💦
それも昔、亡き母が旅の途中で、車がちょうど利根川を渡っている最中に、歌そのものではなくって★
実はこの曲には、1番と2番の間に台詞がありまして、それを彼女が語った事から初めて、その存在を知ったという、何ともその・・・うーむ★ (^_^;)
歌手の 三波春夫さんは、もとは講談師から歌手になられたお方だそう。 👀
なのでその歌はもちろん、その台詞回しも達者だったと、そちこちで紹介をされております♡
・・・そして当時の、私こと山野亜紀の母が申す事には、
「平手造酒ってのは、肺病病みでもう、大酒呑みでさぁ、
・・・もう、死に死にムード(!)なのに、お世話になった親分さんの決闘に、義理があるからって助太刀に行って、結局は死んじゃったのよ。バカだよねぇ、寝てりゃ良かったのにさぁ~・・・」
といった、説明でした・・・。 😅💦
「止めて下さるな 妙心殿
落ちぶれ果てても 平手は武士じゃ
男の散りぎわは 知って居りもうす
行かねばならぬ 行かねばならぬのだ~っ・・・」
・・・これが名台詞(!)なんだそうですが★ 😅💦
利根川ってのは、渡るにはけっこうに幅のある川ですから、その間にそんな 話をしていたのですが。
逆に言えば、そこしか聞いていなかった(!)ので。
●今回調べてみて初めて、これが史実として正しいかどうかは定かでないにしても・・・平手造酒さん★
お江戸は、神田お玉ヶ池の千葉道場に通う、かの千葉周作の門下生で俊英(!)であられた事とか。
・・・奥さんを亡くして、その心の傷を癒す為にもと酒に走り、とうとう酒乱になってしまったが故に、結局は千葉道場から破門を言い渡されてしまったなる人物設定であった・・・などなど。
色々と知る事にも、なりました。
へ~え・・・。 (゜-゜)
流浪の末に、下総は香取郡、松崎(現在は、松崎町)の名主さんの家に身を寄せる事になった・・・造酒さん★
氏素性の処は結局、よくは判ってはいないんだそうですが、この地で剣術道場を開いていたという事実(!)を顧みても。 👀
・・・これは、絶対に名主さんの協力がなくしては(!)出来なかったでしょうし。
という事は造酒さん、人格的にも優れていたお方だったのではないでしょうか・・・???
そしてこの地で、博徒である笹川繁蔵さんと知り合って、客分にまでなるんですが。
この二人、馬が合ったという事なんでしょうかねぇ~。 (゜-゜)
●そして、天保15(1844)年の8月3日。
飯岡助五郎一家と笹川一家が、大利根河原で血闘を始めます(!)
・・・お話では造酒さん、病の身でもあるし、客分とはいえ、笹川の親分さん一家と造酒さんは、特には縁(ゆかり)もない事だと考えられて、親分さんは造酒さんには、事の次第を知らせる事をしなかった・・・という事に。
ところが、それを知った造酒さん★
先ほどの台詞を、長々と叫び(!)
利根川河原にまで駆け付けて、笹川方に助太刀(!)
・・・そこで刃に倒れ、翌日には亡くなったという事です。
享年30歳であるとか、または30代だったとも。 👀
●さてところで、突然ですが(!)
昨年2014年の5月に、「林邦史朗の殺陣ライブ」公演を東京は代官山で行っておりました。 👀
そこで「殺陣の振付・実践コーナー」というのを設けたのですが、これがけっこうに好評でした♡
・・・次回やるなら、どんな演目が良いかなどと話していた折に、林先生が出した演目には、
「去年やった座頭市や円月殺法なんかも良いんだけど、丹下左膳とか、平手造酒も良いんだよなぁ~・・・」
と。
そんな事を、仰っておられました。
その映像を今回(しかも、林先生が振り付けた本物の殺陣で☆)見られるかも知れないとの事で、私こと山野亜紀は、とても楽しみにしておりました。 (^_^)/
・・・末筆になりますが。
「和心きらり」HPの創設より「健康アドバイザーとして、ご協力」を戴いていた林邦史朗先生が、2015年10月29日22時25分に、ご自宅で亡くなられました。
膵臓癌でした。
8月の2日と16日の、恒例の「真剣刀法と殺陣のWS」は、もちろんのこと。
同月26日(緊急入院される2日前)、恒例の若駒アクションクラブの稽古まで、具合が悪いながらも、自ら指導をされておられました。
先生のご冥福を祈ると共に、先生の志を繋いで行きたいと私、山野亜紀は願っております。
(2015.11.1 文責・山野亜紀)
〇2015年11月のお膳