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第24話 「まいりました、鰹さん★」(2015年5月)

●2015年4月の、「80周年記念(!)クオカードプレゼント!」

 こちらに、たくさんのご応募を戴きまして、誠にありがとうございました~っ。 (^-^)
 ・・・小さくても、80年の歴史を持つ実家の会社なんですが、長らく広告代理の仕事のみで経営して来たので、商品らしきモノを扱ったのは・・・私こと山野亜紀が手掛ける「殺陣教育DVD」くらいなんでございます。 (^_^;)
 兄の希望があって、もちろん林先生には写真使用の許可を得ての、このカード制作と仕上がりとなりました。 👀

 ちなみに当社60周年の折には、長らくお取引戴きました皆さまには、白ワインを贈っておりました。 👀
 今回は80周年という事で、赤ワインを贈らせて戴いたそうです♡

●・・・はてさて。

 私が5月の「和心きらりレシピ」を何とか仕上げたのは、GWの真っただ中でございました。 👀
 その間、銭湯で菖蒲湯を楽しんだりと、ちょいと連休気分も楽しみましたが、 今回の旬エッセイは皆さまご存知の通り、鰹とそら豆なんです。
 ・・・空豆の資料があんまりないのにも閉口しましたが、鰹の資料の方がまた、さすがは江戸人が好んだだけの事はある食材です。 😅💦

 私が集めた資料を紐解いてみても、またもや何やら新しい事が出てしまい(!)
 ・・・これはこれで、読んでいるとなんだか面白くって、書いては増やし、書いては増やしを繰り返す日々・・・★
 気付けば、あっという間に5日も経ってしまっていました。 (´_`。)

 ・・・仕上げたいのに、それが出来ない★
 とても、旬エッセイ1本では鰹サンの記事は収まりきれない(!)」
 で致し方なし、こちらでも鰹を取り上げてみるかい、・・・って事になりました。宜しければ、お楽しみ戴けたなら、幸いです。 <(_ _)>

●「目に青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」

 私こと山野亜紀なんかが申すまでもなく、これは江戸中期の有名な俳人で、山口素堂(やまぐち・そどう)という人が詠んだ句です。 👀
 当時女房を質にいれても(食べねば)、という程に熱望されていた初物の鰹さんなんですが、実は鎌倉時代の辺りまでは、高貴なお方々は口にもしなかったお魚だったとか★ ( ̄▽ ̄;)

 室町まであと2・3年ですか(?)・・・といった鎌倉の末期に、吉田兼好法師さんが随筆「徒然草」を出版しています。
 その中で「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり」なる下りがあります。 👀

 現代語に訳すと、
「鎌倉の海で獲れる鰹という名の魚たぁ、最近になってあちこち、高級魚とかいうようになってきたけれどもなぁ~・・・」
 そしてその続きは、
「鎌倉の爺様達に言わせりゃぁ、俺らが若い頃にはこんな魚、高貴な方々は全く食べないのは当たり前、貧乏人だってこんな魚、頭は食べずに捨てていたもんさね。
 そんな魚も世も末となりゃ、金持ちの膳にも並んでしまうのかい、あぁ何だか、なんだかねぇ~・・・」といったお話に★ (^_^;)

●ついつい、お江戸の頃の鰹フィーバーの記憶が強いせいか(?)

 せいぜい鰹と日本人は、その辺りからの付き合いなんだろう・・・なんて思いきや。
 なんと(!)
 時代は縄文の前期にまでも遡り、この頃には縄文人、犬を使っての狩猟が始まっていたり、栗を主食として栽培をしていたり。
 魚だって、罠を使っては網で掬う「陥穴漁」が、大変に盛んだったとか。

 ・・・おぉ縄文人、ただの古代人だと思っていたのに、もうはや、ヒトとしての智恵がある・・・。
 捨てたモノではないと、何だか思い知ってしまった私こと・・・山野亜紀なんでであります★ (^^;;
 なので鰹さんも、もう当時は釣り針で釣り上げては、縄文人にはとっても(!)愛されていました。 👀
 この痕跡は、福島県は弘源寺貝塚(現・福島県いわき市)にあるんだそうです★

●・・・さて、時は過ぎまして。

 あともう少しで奈良時代かなぁという頃にもなれば、さすがに日本人も、だいぶんに進化をしております☆
 中国との交易の中で、日本でも文字が発達
 色々と書き記した遺蹟なんかも発見をされているようで、藤原宮跡から「木簡」とあるので、木に文字を墨で書いたモノのようですが。 👀
 地方の産物として、やれ鹿のすしやら、猪の干肉などと並んでカツオは、堅魚(かたうお)の名で並んでおります・・・♡

 「鰹という文字」はこの、「堅魚」から成ったとの説もありますが。
 また一方で、そういえば日本には古事記の時代から、鰹の加工品、鰹節がもうありました。 👀
 当時はまだ堝型(なべがた)の土器で煮て乾燥させただけのシロモノでしたが、保存食なのでもちろんに堅い(!)
 ・・・なので「堅魚の文字」は、ここから来たとも。

 ・・・ちなみに中国では、こちらの文字は「けん」と読んで、「オオウナギ」の意味に。 😅💦
 けっこうに同じ漢字でも、中国と日本では意味が違うんだなぁと、驚かされます。 (^_^;)
 まぁ、縄文の頃から愛されていた鰹さんですから。
 その習性的にも、日本の太平洋岸側でなら、どの時代でも良く上がる魚だったのだろうかと思われます。 👀

●・・・さて、それからさらに時は過ぎまして。

 平安の中期にもなると、「延喜式(えんぎしき)」という書物が発行されます。
 ・・・これは、「律令(という法律)の施行細則」なんだそうですが★
 なぜに、「法律の細かい決め事を書いて、下々に知らしめた書」に、何故に「カツオの料理法」が様々、書かれているのでしょうか・・・?

 どう考えてみても、「食べ物でしかないと思われるカツオの名前」や、さらに加工名までもが法律書に出てくるのか、とんと判りません・・・★ (^_^;)
 ・・・ところが、ドンドン(!)
 調べていくと、この書物自体は平安に出版はされたものの、法律自体がこれまた、大化の改新という歴史的事件にまで遡ります。 👀
 ・・・そういえば、そんな事件が日本の歴史には、ありました。 😅💦

●中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが、蘇我入鹿を暗殺(!)

 その後で、「改新の詔(みことのり)」なる宣言を、日本の初代天皇・孝徳さんが発します。
 ・・・この事件も、今では様々な説が叫ばれているそうですが、可哀そうなのはとにかく庶民です。 (T_T)

 聖徳太子が亡くなって、蘇我氏がとって代わって勢い付きはしたものの、それまでとは何ら変らぬ暮らしが、今までは出来ていました。 👀
 それがある日、蘇我入鹿がクーデターに遭って、蘇我氏が滅亡(!)
 何やら新しく統治者として「天皇」という人が出て来て、色々と法律を作っては、定めていきます。
 ・・・まぁ、色々決めていった中で、「租庸調制(そようちょうせい)」というのが、ありました。

●この租庸調、中国の律令をモデルにして、日本には新しく取り入れられた「税法」なんですが。

 まずこの「祖」というのは、収穫(日本なので、もちろんお米★)の3%を国に納めること。
 ついで「庸」とは、往復交通費を自腹で宮にまで赴き、天皇が定めた一定期間、宮でタダ働きをすること(!)
 そして「調」は、この他に「地方の特産物を税として納めなさい」という、余りにも、・・・余りにもなお話。 Y(>_<、)Y

 当時の日本の庶民は、この「3形態の税金を納める義務(!)」天皇より課せられてしまいました。 (>_<)
 「生(なま)堅魚」や「荒(あら)堅魚」、「煮(に)堅魚」、「鰹腸醤(わたひしお)」に「堅魚煎汁(いろり)」・・・などなど。
 煎汁とは、鰹の煮汁を差すそう。

 当時は鰹サン、「中男作物(ちゅうなんさくもつ)」やら「交易雑物(こうえきぞうもつ)」としても、大活躍★
 鰹はその習性ゆえに、太平洋側の諸国で多く獲れていたので、伊豆を始め。
 日向やら豊後、土佐、阿波や紀伊に志摩、遠江に駿河、相模に安房・・・などから貢納をされていたそうです。 👀

●さてそれから鎌倉の後期にもなると、鰹は生でも食べられるように。

 室町時代の調理書、「包丁聞書(ほうちょうききがき)」には、「鰹の刺躬(さしみ)」「生鰹」の文字が見えます。
 さて、武士の世になってくると今度は、 「鰹は、勝男に繋がるから縁起が良い」とされて、侍が出陣の前に初鰹を食べる習慣も始まります。

 ・・・最も、「戦が、いつも初鰹の頃にある」訳ではないでしょうけれど、武将には大変に好まれていたのか、貢物として使われていたり。
 特に鰹節は、戦場では重宝をされました。
 徳川家康も「関ヶ原の戦いの折には兵糧として持って行った」など、あちこちにその活躍の様子が遺されています。 👀

●・・・ところで江戸って、考えてみれば、 そんな家康が作った侍の町ですよね。 👀

 庶民がお殿様に習って。
 ・・・実際には「本当に粋なお侍さんが、どれほど江戸の町に居たのか」判りませんが、そこに便乗するのもまた、江戸っ子なのかも知れません★ (^_^;)

「お侍さんが、嗜み(たしなみ)なさるんだから・・・」
「さすがは、お侍さんだ、勝つにカツオを掛けているのかぃ、じゃぁ、おいらも乗るぜぇ」
 ・・・なんて処から、もしかして、大ブレイクが始まっていったのかも知れません。 😅💦

●五代将軍・綱吉の頃に出版された本草書「本朝食鑑(1697年)」に。

 ・・・ところでこの本草書というのは、多くの和漢の薬草や食べ物などの名前はもちろん、来歴や形状、効能までも紹介してますが、カツオの食べ方についても、
「刺身によく、霜降り、生(なま)りにつくるとてよし、生りは夏期の賞味たり。また鰹節、鰹醤を製す」
 と、あります。 👀

 この頃も、もちろん初鰹は相模灘の辺りで獲られていました。
 獲れた鰹を今度は、夜早船で江戸まで運んでいたので、通称を「夜鰹」と呼んでいたとか★

 例の「お江戸の初鰹ブレイク」ですが、松尾芭蕉の弟子甚角(なので、五代将軍・綱吉の頃のお話★)が勢い付いて、
「初鰹 一両までは 買ふ気なり」
 なんて句を詠んでいるので、文献的には、この辺りが皮切りではないかとも。 👀

 「戻り」よりも初鰹の方が、お江戸の時代では好かれていました。
 これは、鰹に脂がのっていなかったからなんですって。
 ・・・そういえば、今は日本人が大好物のトロだって、お江戸の頃は全く評判が良くなかったんですもんね★ (゜-゜)

●「食べれば、75日も寿命が延びる」という言い伝えから、江戸っ子が初物好きになっていったとも。

 当時は辛子味噌をつけて鰹を食べていたそうなんですが、あまりにもお江戸の民人が初物に熱狂をするので、とうとう幕府の方で、こんなお触れが。 😅💦
「この食べ物は、何月からしか食べてはいけない」
 ・・・出たんですが、お江戸の民人の心意気を、お殿様には舐めてもらっちゃぁ困りますぜっ!
 魚だろうが野菜だろうが、「初」と名のつくモノは人よりも、先んじて食う!

 ・・・そこだけは、人には負けたくないという風潮がとにかくお江戸には(!)
 上は大店の主人から、下は長屋の住民に至るまであったというんですから、まったく、笑っちゃいますよね。 (^▽^;)
 江戸では、こんなだったそうですが、これがまた、西の人にはまったく、そんな記風はなかった★

 初物を、競い合ってまで買うような事は、関西人の人には合わないらしく★
 きちんと旬の味として、お手軽なお値段で楽しんでいたよう。
 ・・・以上、私こと山野亜紀を悩ませ続けてくれた「鰹レポート」でございました。 ( ̄_ ̄ i)
 (2015.5.1 文責・山野亜紀)


 〇2015年5月のお膳

☆「初鰹(!)空豆は安土桃山、日本人」~皐月の旬(2015年)

〇抹茶くずもち

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